通貨制度改革

徳川家康が17世紀初めから金座・銀座に大量発行させた慶長金銀にはじまる。17世紀後半以降には各藩で、城下町の経済を背景に藩札を発行するところがあらわれた。

新政府は貨幣制度の大混乱に直面していた。大隈は新貨幣鋳造の必要性を痛感し、1869(明治2)年3月に新貨幣鋳造の建議している。同年、大隈は会計官副知事に就任し、1871(明治4)年に円・銭・厘を単位とする新貨幣体系を採用した。

1871(明治4)年に円・銭・厘を単位とする新貨幣体系を採用した。これにより紙幣の整理・統一が促されたものの、新貨幣である金貨が決定的に不足したため、貿易取引用に銀貨(貿易銀)が鋳造された。

国内では、明治維新直後に発行した太政官札などと引き換えるために新たな政府紙幣(不換紙幣)が発行された。

1872(明治5)年、渋沢栄一らにより国立銀行条例が制定された。この条例は国立銀行の発行する銀行券に正貨(金)兌換を義務付け た。

1876(明治9)年、明治政府は国立銀行券の兌換義務を取り除いた。以後1879(明治12)年の第百五十三国立銀行設立を最後に認可が中止されるまでの期間、国立銀行は設立ブームを迎えた。一方で、不換紙幣化した大量の国立銀行券はインフレ(=通貨供給量の増大)を助長する一因になった。

1885(明治18)年、日本銀行による銀兌換銀行券発行に続き、翌年には政府紙幣の銀行兌換も開始された。こうして日本は、ひとまず銀本位制を確立した。

1897(明治30)年、第2次松方正義内閣が貨幣法を制定し、100円=金75g(≒49.85ドル)と定めて、金本位制を確立した。日清戦争で得た巨額の賠償金をポンドで受領することで、正貨準備を蓄積することが可能となった。

当時、国際社会では、金に対する銀貨の下落が進行していた。(幕末には金1対銀15、1890年には金1対銀20、1897年には金1対銀34になっていた。)日本が採用していた銀本位制にはむしろ、円為替相場を円安にし、輸出促進・輸入抑制というプラス効果があった。しかし、銀本位制のままでは金銀相場の変動により貿易が不安定になり、金本位制の欧米諸国からの機械・鉄鋼・綿花などの輸入が不利になる。それにもかかわらず金本位制が採用されたのは金本位制の採用が円の国際的信用の確立に直結するからだった。