生涯をざっくり

大隈重信の一生をNHK知恵の泉で放映された画面でご紹介します。

1838(天保9)

大隈重信は天保9(1838)年、佐賀藩上級武士家に生まれる。 ‘

幼い時のあだな

こども時代は藩校で成績はトップであったが、あだ名がハシクリ(ハゼ)といわれ抑えがきかない暴れん坊だった。

1853(16歳)

嘉永6(1853)年(重信16歳)、黒船来航、アメリカの艦隊が武力を盾に日本に開港を要求。

1867(30)

重信は西洋の脅威に対抗するには西洋の学問を学ばねばと藩校を退学してしまう。

1868(31)

やがて時代は明治、大隈重信は西洋の近代的な知識に詳しい大隈は明治新政府の中心メンバーになる。

1871(34)

全国の貨幣を統一して「円」を制定 .新貨条例(円銭里).

1872(35)

大隈は日本の近代化を急ぐべきだと主張、鉄道の導入を訴えた。ところが当時の日本は財政難。陸地が手に入らない。そこで大隈重信は「陸地がだめなら海を通せ!」と海の中に堤防を作り、その上に鉄道を通し、明治5(1872)年新橋横浜間に日本初の鉄道を開通させてしまった。

1872(35)

暦を太陽暦に変更するなど次々に近代的改革を成功させた。

1882年(45)

東京専門学校設立。

1889年(52)

大隈は人を見下した独りよがりな性格が次第に多くの敵を作るようになる。明治22(1889)年(52歳)、大隈は外務大臣として西洋列強との不平等条約の改正に取り組んでいた。馬車で移動中爆弾に襲撃され右足切断の重症を負った。条約交渉を強引に進める大隈に不満を持つ男の犯行だった。

1890年(53)

明治23(1890)年(53歳)、第1回帝国議会議員選挙が実現したが大隈率いる立憲改進党は300議席中46議席で惨敗した。 これを機に大隈は新聞や雑誌に頻繁に意見を発表するようになる。帝国議会でも外務大臣・大隈は議員の質問を待ち丁寧に返答した。

50歳台

大隈流スピーチの極意は「①はじめゆっくりあと早く②聴衆の目を見て沈黙を読み取れ③話す明確な目的を持て④場数を踏んで慣れろ」である。

1898(61)

明治31(1898)年(61歳)、大隈の政党は議席を倍増91議席に伸ばし、日本初の政党内閣の総理大臣に就任した。当時のジャーナリストや政治家は「大隈以上の者はいない」と称えた。

1907(70)

早稲田大学初代総長となる。大隈は早稲田大学雄弁会の初代総裁である。

1908(71)

アメリカに早稲田の野球部を送り初の日米野球を実現した。アメリカ側が来日し日本で初めて行われる始球式で71歳の大隈がピッチャーをする。

1910年(73)

明治43(1910)年、陸軍中尉白瀬矗(しらせのぶ)がアジア人で初めて南極探検を表明し、大隈は寄付金集めに奔走する。白瀬は1912年南極に到達、大隈への感謝の証に自ら発見した湾を「大隈湾」と命名した。

1922(85)

大正11(1922)年(85歳)早稲田の自宅で死去。葬儀は東京・日比谷公園で国民葬として行われ、日本中から30万人が参列した。

85歳

125歳説は今日DNA研究が発達し、近い将来、本当に実現するかもしれない。